春日部桐箪笥の歴史

~はじめに~

日光東照宮造営に集められた工匠たちがこの地に繁茂していた桐の樹木を用いて細工ものを作り始めたのが起こりと言い伝えられている。
大きい収納具車長持ち(カルト)や長持ちつくりが次第に箪笥へ発展していき、さらに、箪笥の端材を用いた桐小物(指物・小箱)なども需要を掘り起こして、桐細工の産地が形成され、江戸中期には桐箪笥産地と発展していく。
桐のオガ屑を使用したものが人形の頭や胴体となり、岩槻・鴻巣の人形産地へと発展する。
室町時代に活躍した大田道灌親子による岩槻城・江戸城の築城による木材加工技術者が既にこの地にあったこと、更にこの地に祠が多く繁茂していたこと、そして、工匠たちがこの地に残ったことにより、桐箪笥が製造されるようになった。
日光東照宮造営に集められた工匠たちがこの地に繁茂していた桐の樹木を用いて細工ものを作り始めたのが起こりと言い伝えられている。大きい収納具車長持ち(カルト)や長持ちつくりが次第に箪笥へ発展していき、さらに、箪笥の端材を用いた桐小物(指物・小箱)なども需要を掘り起こして、桐細工の産地が形成され、江戸中期には桐箪笥産地と発展していく。
桐のオガ屑を使用したものが人形の頭や胴体となり、岩槻・鴻巣の人形産地へと発展する。室町時代に活躍した大田道灌親子による岩槻城・江戸城の築城による木材加工技術者が既にこの地にあったこと、更にこの地に祠が多く繁茂していたこと、そして、工匠たちがこの地に残ったことにより、桐箪笥が製造されるようになった。

~工芸品として登場~

実用品としての桐箪笥が国の伝統的工芸品に関する法律の施行によって、工芸品として位置づけられ、春日部桐箪笥は立証された事実資料1によって、昭和54年8月3日に通産大臣指定の伝統的工芸品『春日部桐箪笥』として誕生した。
実用品としての桐箪笥が国の伝統的工芸品に関する法律の施行によって、工芸品として位置づけられ、春日部桐箪笥は立証された事実資料1によって、昭和54年8月3日に通産大臣指定の伝統的工芸品『春日部桐箪笥』として誕生した。

~背景~

岩槻城や江戸城築城した太田道灌親子(室町時代)がこの周辺地にいた。
彼らは建築加工の技術者集団である。3代将軍家光が日光東照宮造営に全国各地より工匠と言われる人々を集めた。
春日部はその宿場町であった。当時は周辺に多くの桐畑があった。我々もその面影を覚えている。
この周辺は農業だけでは生活できなかった。半農半工である。屋号から推測できる木挽き屋さん等がそれぞれの字(村中心)に存在している。

日本の文化は伝承文化(農村文化)である。家長中心で長男以外は他に仕事を求めなければ生活ができなかった。
江戸との交流が船便によって物資が安易に運搬できた。(碇神社が存在する。)その周辺には色街も存在していた。
表通りは当時の中心宿場町であった。本陣や脇本陣が存在する。
参勤交代における長持ち修理がおこなわれていたと思われる。
岩槻城や江戸城築城した太田道灌親子(室町時代)がこの周辺地にいた。彼らは建築加工の技術者集団である。3代将軍家光が日光東照宮造営に全国各地より工匠と言われる人々を集めた。春日部はその宿場町であった。当時は周辺に多くの桐畑があった。我々もその面影を覚えている。この周辺は農業だけでは生活できなかった。半農半工である。屋号から推測できる木挽き屋さん等がそれぞれの字(村中心)に存在している。日本の文化は伝承文化(農村文化)である。家長中心で長男以外は他に仕事を求めなければ生活ができなかった。江戸との交流が船便によって物資が安易に運搬できた。(碇神社が存在する。)その周辺には色街も存在していた。表通りは当時の中心宿場町であった。本陣や脇本陣が存在する。参勤交代における長持ち修理がおこなわれていたと思われる。

~春日部に箪笥等の出現~

岩槻城が戦国時代の頃、北条氏に滅ぼされ落人が当時湿地帯であった春日部へ船で逃げ延びている。
その中に水陸両用の車長持ちが武里と新方袋で見つかっている。この長持ちは輪が隠れていて、脇には抽斗が付いている。非常に珍しいものである。前述の農家から見つかった箪笥は9棹もあった。黒光りし、柿渋で仕上げてあり金具の違いが若干感じ取れる。そこに収納されている衣類などは紬が多くあった。何回もあらい剥ぎされ、使い古されたものも数多くある。長持ちも、5~6棟あり、薄暗い屋根裏に置き去りにされて、まるで寝棺みたいである。
家紋が大きく入った上扉には横1本に補強用金具があるもの。
また、縦横十文時に入った二つ重ねの箪笥である。当主は代々名主を務めている地主で、梯子を取り外すと収納部屋には出入りができない隠された空間である。
岩槻城が戦国時代の頃、北条氏に滅ぼされ落人が当時湿地帯であった春日部へ船で逃げ延びている。その中に水陸両用の車長持ちが武里と新方袋で見つかっている。この長持ちは輪が隠れていて、脇には抽斗が付いている。非常に珍しいものである。前述の農家から見つかった箪笥は9棹もあった。黒光りし、柿渋で仕上げてあり金具の違いが若干感じ取れる。そこに収納されている衣類などは紬が多くあった。何回もあらい剥ぎされ、使い古されたものも数多くある。長持ちも、5~6棟あり、薄暗い屋根裏に置き去りにされて、まるで寝棺みたいである。家紋が大きく入った上扉には横1本に補強用金具があるもの。また、縦横十文時に入った二つ重ねの箪笥である。当主は代々名主を務めている地主で、梯子を取り外すと収納部屋には出入りができない隠された空間である。

~歴史的事実~

安永六年酉年の『公用鑑上』に箱指屋10人位が永五十文の冥加金を納めて営業をしている。さらに営業の申し出をしている者が数名いると書き記されている。
明和九年(1772年)裏書きの桐箪笥が岩槻から発見される。四ッ抽斗の門形で岩槻の作り酒屋の屋根裏から年号と作者名記載の門型の箪笥が発見される。これは四ツ抽斗の1本立ち箪笥である。火箸棒の取手のような細い金具と木部の門は壊れ、その受け金具が少し残り、当時、代表的な門型の箪笥であることが分かる。
明和九年は安永元年であり、まして七月三十日で終わっている。
引き出しをひっっくり返し底板の裏に作者名が書かれていた。伝統的工芸品「春日部桐箪笥」の法律申請に際して、現地調査が行われた。
当時の通産省の専門部会木竹部会の専門委員成田寿一千葉大教授は「現物による歴史性を立証したのは皆無である。それだけに本当に素晴らしい。」と称賛された。

特に最初に産地指定された新潟県加茂市では元総理田中角栄の政治力で産地指定された。百年以上の史物がなかったが、推定ということで指定を受けていた。
天保十三年(1843年)小渕観音院の「聖徳太子像」修理寄附帳に記載されている奉納者230名中79名が桐箪笥関係の職人達である。
小泉和子著作の『箪笥]我々も資料提供し、座談会を設けて、討論したが若干捉え方が違うが、おおよそは述べている通りである。
17世紀に突如桐箪笥が歴史上に出現する。
生徳三年(1713 年)の『和漢三才図会』(寺島良安著)に五つ抽斗小袖厨子(たんす)と振り仮名をつけて記載されている。
前述の水陸両用の車長持ち(カルトと言う)には片方の長い側面に五つ位、抽斗が付いていた。これは大変なことである。
抽斗物がない時期にすでに春日部周辺には箪笥の原型があったということである。
安永六年酉年の『公用鑑上』に箱指屋10人位が永五十文の冥加金を納めて営業をしている。さらに営業の申し出をしている者が数名いると書き記されている。明和九年(1772年)裏書きの桐箪笥が岩槻から発見される。四ッ抽斗の門形で岩槻の作り酒屋の屋根裏から年号と作者名記載の門型の箪笥が発見される。これは四ツ抽斗の1本立ち箪笥である。火箸棒の取手のような細い金具と木部の門は壊れ、その受け金具が少し残り、当時、代表的な門型の箪笥であることが分かる。明和九年は安永元年であり、まして七月三十日で終わっている。引き出しをひっっくり返し底板の裏に作者名が書かれていた。伝統的工芸品「春日部桐箪笥」の法律申請に際して、現地調査が行われた。当時の通産省の専門部会木竹部会の専門委員成田寿一千葉大教授は「現物による歴史性を立証したのは皆無である。それだけに本当に素晴らしい。」と称賛された。特に最初に産地指定された新潟県加茂市では元総理田中角栄の政治力で産地指定された。百年以上の史物がなかったが、推定ということで指定を受けていた。天保十三年(1843年)小渕観音院の「聖徳太子像」修理寄附帳に記載されている奉納者230名中79名が桐箪笥関係の職人達である。小泉和子著作の『箪笥]我々も資料提供し、座談会を設けて、討論したが若干捉え方が違うが、おおよそは述べている通りである。 17世紀に突如桐箪笥が歴史上に出現する。生徳三年(1713 年)の『和漢三才図会』(寺島良安著)に五つ抽斗小袖厨子(たんす)と振り仮名をつけて記載されている。前述の水陸両用の車長持ち(カルトと言う)には片方の長い側面に五つ位、抽斗が付いていた。これは大変なことである。抽斗物がない時期にすでに春日部周辺には箪笥の原型があったということである。

~収納具の歴史~

収納具の歴史は中国では竹で編んだ行李のような被せの箱が最初である。(小型で持ち運び便利な物が)今日の源である。従って、語源的にタンスには竹冠が用いられている。
前述の「三才和漢図」に厨子をたんすと振り仮名がついてある。箪笥の形の原型は正倉院の厨子である。
鋸や鉋類のない時代に木材を削って板状にして、両開きの扉を作り抽斗を作った。
仏像を収納し、それに付随する者を納めていた。岩槻城落城(北条氏に滅ぼされる。)の折、武具入れた水陸両用の車長持ちがある。(我々は抽斗が付いていることを考えると箪笥の基が有った。と認めざるを得ない。)大宮・川越などにも古い桐箪笥がある。
それらと比較すると、桐材が使用していないものも数多くある。周辺地域に桐の木が有るかないかの違いである。
収納具の歴史は中国では竹で編んだ行李のような被せの箱が最初である。(小型で持ち運び便利な物が)今日の源である。従って、語源的にタンスには竹冠が用いられている。前述の「三才和漢図」に厨子をたんすと振り仮名がついてある。箪笥の形の原型は正倉院の厨子である。鋸や鉋類のない時代に木材を削って板状にして、両開きの扉を作り抽斗を作った。仏像を収納し、それに付随する者を納めていた。岩槻城落城(北条氏に滅ぼされる。)の折、武具入れた水陸両用の車長持ちがある。(我々は抽斗が付いていることを考えると箪笥の基が有った。と認めざるを得ない。)大宮・川越などにも古い桐箪笥がある。それらと比較すると、桐材が使用していないものも数多くある。周辺地域に桐の木が有るかないかの違いである。

~目立たなかった訳 ~

春日部の地形は海岸線の後退による、低湿地地帯であり、稲作中心の農村文化圏である。
百姓五郎八と名前の出てくる人は庄屋である。他の人物は小作農であり、その分家となるもっと貧しく暇の時期の職業を探す必要があった。
この周辺には関ヶ原の負け戦の武士一団が流し説の武士一団が流浪し、百姓になっている集団もいる。百姓以上に開拓精神が強く、荒れ地を稲作用に開墾して生活した。
つまり、この地の先住住民は条件の良い地形の土地で稲作農業に就農していた。湿地帯や小高い雑木の地形を開墾し、徐々に農地を拡大していた。
幕府直接の天領ということであり、様々な届け物は公用鑑上として、幕府に届ける必要があった。また、天領故に目が届かなかった。
収穫高が上がってきていることが経済効果を上げ、他地区からの流入も増え、粕壁周辺の人口も増えてきたと推測できる。
また関西方面からの商人も、この地に移り住んで来ている。文化と資金が増えた結果、生産と需要が増加して、この地も豊かになっていく、だが、一般の百姓はあくまで小作であり、前述にも触れているが、表の世界には出現しないのである。
工の部分の職人は職種の頭として、名前が出てくるが、この時代は百姓が本分であり、半農半工であるから、租税を納めていないと家号が表示していなかったと思われる。
本家の、農業に従事していたが、何世代と経ていくうちに別世帯と独立し、その分家となって、職業が変化して確立しったと推測できる。

《参考資料〉小泉和子著作きものと人間の文化史46桐単司
春日部の地形は海岸線の後退による、低湿地地帯であり、稲作中心の農村文化圏である。百姓五郎八と名前の出てくる人は庄屋である。他の人物は小作農であり、その分家となるもっと貧しく暇の時期の職業を探す必要があった。この周辺には関ヶ原の負け戦の武士一団が流し説の武士一団が流浪し、百姓になっている集団もいる。百姓以上に開拓精神が強く、荒れ地を稲作用に開墾して生活した。つまり、この地の先住住民は条件の良い地形の土地で稲作農業に就農していた。湿地帯や小高い雑木の地形を開墾し、徐々に農地を拡大していた。幕府直接の天領ということであり、様々な届け物は公用鑑上として、幕府に届ける必要があった。また、天領故に目が届かなかった。収穫高が上がってきていることが経済効果を上げ、他地区からの流入も増え、粕壁周辺の人口も増えてきたと推測できる。また関西方面からの商人も、この地に移り住んで来ている。文化と資金が増えた結果、生産と需要が増加して、この地も豊かになっていく、だが、一般の百姓はあくまで小作であり、前述にも触れているが、表の世界には出現しないのである。工の部分の職人は職種の頭として、名前が出てくるが、この時代は百姓が本分であり、半農半工であるから、租税を納めていないと家号が表示していなかったと思われる。本家の、農業に従事していたが、何世代と経ていくうちに別世帯と独立し、その分家となって、職業が変化して確立しったと推測できる。
《参考資料〉小泉和子著作きものと人間の文化史46桐単司